古本屋の始めかた:神奈川古書組合より

カテゴリ: 現役古本屋のひとりごと

                                                             相模支部  文雅新泉堂・野崎正幸
 古本屋の店名は、興味深い。
 私がなぜ「文雅新泉堂」と名乗るようになったのか、という話をする前に、少
しユルイ店名考察などしてみたい。
 考え抜かれた(ように思える)名前だと感じたものに「フルホニズム」がある。
店主本人はさておき、この名前からは知性とユーモアが感じられ、スマートでも
ある。平凡な匂いがどこにもないとまでいったら、いかにも褒めすぎだが…。
 自分の名前、またはその一部を取り入れるのはよくみるが、その安直の極みは、
なんと言っても「中島古書店」だろうか。たとえば「ウサギのフクシュウ」など
という商店名とも思えず、その扱い商品の見当もつかない店名に比べれば、「中
島古書店」は、いかにもいさぎよい。しかも「中島書店」ではなく、「中島古書
店」としたところに新感覚の匂いがあり、古文書・和本の専門店への志向も最初
から鮮明だったのだろう。
 古本屋同士は、たいがい店名を呼び合うことが多いのだが、誰も店名で呼ばな
いのが「りぶる・りべろ」だろう。私は「ねえ、りぶる・りべろさん」と誰かが
呼んでいるのを聞いたことがない。なにせ長すぎる。舌がもつれとしまいそうな
のだ。自分がどう呼ばれるかまで考えて命名する人も、あまり多くはいないだろうが、
「川口さん」もその一人というべきか。店名からのメッセージは、明確だから文
句はないのだが…。
 さて、「文雅新泉堂」はどうなのか。20年近く前、古本屋を始めようとしたと
きに、店名はこれで決まり、とわずか5分で決めてしまった。
 当時、私は雑誌のライターをしていた。新刊紹介の記事や、作家のインタビュー
など、本に関連する分野の仕事が多かった。
 その一つとして、北尾トロ『ぼくはオンライン古本屋のおやじさん』という本
を読んだのだ。それを読んでいるときは、まさか自分でも始めようなどとは露ほ
ども思っていなかった。面白そうなことをやっている人がいるものだね、くらい
の感じで読み終えていた。
 しばらくして、古本屋になろうかなと思い始めたのは、それから半年後のこと
だ。なんとなくライターとしての先行きに翳りを感じ始めたのだ。何か副業をや
ろうか、と考えてライター兼業の古本屋という北尾さんのやり方があるね、と思
いついたのだ。
 店舗を持つことなど、考えもしない(開店費用もないし!)。ひたすらオンラ
イン古本屋でいく、と決め込んだ。そうとなれば、まずは自店のホームページを
つくることだ。ホームページと並んで、古本のネットモールに出品すること、こ
の2本立てで営業する。お手本はすっかり北尾トロさんだ。
 古本のネットモールとしては当時はまだアマゾンは影も形もなく、「日本の古
本屋」はあったけど実用には適せず、「イージーシーク」が最もポピュラーだった。
「スーパー源氏」というのもあったが、北尾さんの周辺ではなぜか評判がよくな
かった。(北尾さんとはその後、渋谷パルコで即売展をやったり、果ては長野の
山中で常設店舗を共同経営したり、いろいろ面白い体験を重ねた。)
 とにかく始動するには、ホームページを公開することだ。心中では決めていた
店名をここに書き入れる。文雅新泉堂! 裏に隠された意味は、「文が新鮮どう
だ」なのだ。字面で見ると偉そうだけど、単なる駄洒落だ。ライターが古本屋を
になるのだから、文章が新鮮でなければならないのは当たり前、といったところ。
文賀神仙堂とか、蚊蛾信銭洞とか、文画伸船頭とか、文字ではいくらでもありそ
うだったが、もっともそれらしいものに落ち着いた。
 ふつうには「文雅さん」と呼ばれているが、中には「新泉堂さん」と呼ぶ人も
たまにいる。「文雅」の文字が入った店が、東京に2軒あるので、催事などで一
緒になったときの区別として「新泉堂さん」となることもある。
 名づけるという行為は、心わくわくするものだが、何度も機会があるわけでも
ない。古本屋をこれから始めようとする人は、そのわくわく期を充分楽しむがよ
い。準備期間はあっという間に過ぎて、あとはだらだらとした本番が続いてゆく
のだから。
 わたしも「文雅さん」になって、かれこれ20年。あと何年出来るだろうか、と
いう時期になってきたが、まあ行けるところまで行くつもり…。

                                                                     相模支部  文雅新泉堂・野崎正幸

                                     川崎支部 アニマ書房 春田道博
 
 北海道の桜は5月連休頃に開花する。今では本州と同じ種類で、ソメイヨシ
ノや紅枝垂桜なども咲いているようだが、圧倒的に多いのは「エゾヤマザクラ
」である。
少年時代の私が家族とともに花見に出かけた時に眺めた桜は、このエゾヤマザ
クラであり、その当時はソメイヨシノなどはなかったように思う。
北国で冬の降雪と酷寒に耐えられる桜の品種は限られてしまうようだ。
そして私のなかの桜は、満開時の見事さ、華やかさの光景はない。
エゾヤマザクラの小さな花びらの、誠に貧相な風景でしかない。
その北海道から移り住んだ当座は、本州の木々は珍しかった。それが梅であっ
た。後に狭い我が家の庭に、近くの造園業者に頼んで白梅、紅梅をそれぞれ
一本づつ植えて貰った。
ところが植えて数年して判明したことは、この二本の梅はいずれも白梅であっ
たことだ。期待した紅い花びらの風景は幻に終わり今に到っている。
つまり造園業者が間違えたのである。時々家の近くで見かけるその造園業者に
出会った時は、苛めをするかのように「今年も紅梅の花は未だ咲かず」と口に
したものである。
特段、紅梅だけが良くて白梅は嫌だという理由もなかったから、その嫌がらせ
も後には止めた。その梅を植えた時に、同じ造園業者に甘夏の木も一本植えさ
せたのが嫌がらせを止める理由でもあった。
 
 我が家の斜面の庭に甘夏の木が実をつけるのは、2年毎である。いや、正確
に言うならば、隔年毎に大量の実をつけるのである。
その時は狂い咲きのように、一気に200ケ近い、またはそれ以上の大きな甘夏の
実がなるのである。大量に実をつけたその翌年は20数個で終わりである。
これが規則正しく繰り返されているから、不思議といえば実に不思議である。
甘夏がスーパーで1個100円前後で売られているのを3月半ば頃から見かけるが、
我が家の甘夏はスーパーで売られているそんな貧相なものではない。
私の眼には我が家の甘夏はスーパーのそれよりも1.3倍から1.5倍くらいの大
きさに見えて仕方がない。それほど大きくみずみずしいのである。
スーパーの甘夏をみて「なんでこんなのが100円もするの?」と秘かに冷笑して
いるのは嫌味だろうか。
これ以上言う果実農家には嫌がらせになるから謹んでおきたい。
ここで元機械メーカーの営業マンよろしく、我が家の甘夏を宣伝するとこうなる。
「この甘夏は無農薬、無肥料、ノーワックスです」・・・と。
つまり我が家の甘夏は植えて以来30年余り過ぎたが、未だかって農薬や肥料を
一度も与えたこともなく、果実農家が商品にすべくワックスを施したこともない。
つまり健康食品としてはこれ以上の質の高いものはないではないか、と考えている。
しかも私の足の太ももくらいの幹によくこんな沢山の甘夏がなるものだ、と感心
するばかりである。植物の恐ろしさを一面でみる想いでもある。
この甘夏を狙って、餌が乏しくなる2月頃から大小様々な野鳥たちがやって来る。
だか甘夏の分厚い皮に、鳥たちは太刀打ちできない。当然である。
ただ1度だけ推定20ケくらい盗まれたことがあった。
勿論、人間という動物に・・・、である。私は収穫時期に通りがかりの人が立ち
止まって、収穫を眺めていると、手に持てるくらいの甘夏を差し上げることに
してる。
 さて、3月末頃から4月にかけては甘みが増すころであり、この甘夏の収穫時
期である。なにせ斜面に植えられた木であるから、足場はお世辞にも良いとは
言えない。それでもせっかく実をつけたのであるから、1ケも残さずに収穫す
るのか私の礼儀作法である。収穫した甘夏は、同じ町内の隣接する方々へ、そ
の家の家族構成で考慮し、人数に合わせた数量を配るのである。家族が2人~3
人で10ケ程度。4人くらいであれば15ケくらいか。それ以上では20ケくらいと
なる。北海道の知人、親族へダンボールで送ったり、アニマ書房のお客さんや
友人へ届ける。届ける家は17軒くらいで、収穫後は届ける、送るで忙しい。
その時は「いつもの口上ですが、無農薬、無肥料、ノーワックスです。ただし
洗っていませんから、よく水洗いしてください。洗うのを怠り、病気でお亡く
なりなっても香典は出ません」と優しい言葉を添えることに努めている。受け
取られた方は、そのまま食するかママレードにして味わうようである。但し汚
染された大気のなかの果実であれば、表皮は多少黒ずんでいるところもある。
タワシで丹念洗うしかないが、綺麗にして食することも人間の営みである。
 
 この自然の恵みを享受することで、長生きすること必定である。ではこの木
のオーナーはどのくらい食するかというならば、決まって総数の1%つまり2
ケである。これ以上でもなく、これ以下でもない。
                              了

                     川崎支部 アニマ書房 春田道博

 東日本大震災で被ったアニマ書房の被害は大きく、震災直後は店の休業を余
儀なくされた。店内の文庫本専用の本棚が倒壊し、店の中央に据え付けた本棚
の天板からも多くの単行本が落下した。壁際に設置した大型の本棚も当初の設
置した位置から大きくずれた。震災の前年に自宅敷地内に設けた在庫用の書庫
では本が崩れ落ちた。しかも未整理のままに乱雑に積み上げてあったため、そ
の多くが床へ落下した。函入の書籍が落下して、函に亀裂が入ったものもあっ
た。自然災害は誰も予測することはできない。こうした被害を誰かに話すこと
はなかった。偶然であったが、地震が発生した時は店内には客の姿なかった。
お客の姿が途切れる時間帯でもあった。人身事故を避けることが出来たのは幸
いであった。そして私自身が店内から外へ避難することで精一杯であった。
 店の復旧には1週間余り要した。本棚の地震対策を終え、散乱した書籍の戻
しや並べ替えをして営業を再開した。だが客足は途絶えたままであった。福島
第一原子力発電所の爆発事故のために、それまでの安全神話が崩壊した。それ
が人文科学に影響を与えたと考えている、人文科学が主体のアニマ書房では急
激に売上が落ち始めた。活字離れが酷くなる一方ではあったが、大震災を契機
に毎月の売り上げが、それまでの6割前後まで低下し、この状態はその年の10
月に店売りを止めるまでに続き、回復することはなかった。書籍の内容に大き
な変化はなかったから、やはり大衆の意識に大きな変化が生じ、この社会の実
像や社会の仕組みに対する不信と嫌悪感が大きなダメージとなり、大衆の意識
に地殻変動が起きたと判断するしかなかった。元々粗末な商店街のアーケード
の蛍光灯も、夜は節電と称して消された。原発事故による電力の供給不足のた
めに、国から要請されたという大義名分であったが、本当は売上が落ち込んだ
ための経費節約に乗じた悪知恵にすぎない。今の商人のみえみえの悪知恵はこ
んなレベルである。東北の災害被災地を除いて、こんな被害を受けたのはアニ
マ書房だけであろうか。零細な小売店は、統計的には現れないが、潜在的には
大きな影響を受けた筈である。神奈川古書組合でもその年から翌年にかけて、
店売りを止めネット販売に切換えた店が多かったのではないか。
 アニマ書房の営業はネット販売だけである。催事には参加していない。その
理由は申し上げない。同業者にはそれぞれの個別的な理由がある。かっては会
館展や有麟堂・藤沢の古書市に参加したこともあるが、いくつかの理由で催事
は辞めることにした。誠に偏屈な店である。ついでに申し上げるならば、ネッ
ト販売は日本の古本屋だけで、アマゾンやその他のグローバル企業の古書売買
のサイトには参加しない。日本の古本屋がシステムの変更をそれ以前の内容か
ら、現在の管理機能「ZIZAI」へ変更したときは、そうしたグローバル企業の
数社から勧誘のメールが来た。特にA社からは露骨な勧誘があった。しかも繰
り返しである。その時のメールはいまでも保存している。最近もS社からから
勧誘電話があった。「アニマ書房は、金を振り込ませて商品を送らない、お客

を騙すようなサイトには参加しない、アマチュアとプロの店とが混在したサイ
トは文化を冒涜するものである」と、冷くあしらい、諭して終わりである。ど
だい、電話勧誘で商売が成り立つという心根が浅ましい。坐って楽して仕事を
する者に限って、ろくな営業しか出来ない。そう考えるのも、営業マンとして
33年の経歴を持ち、培ったノウハウをたっぷり身につけているからである。
 アニマ書房の基本的な考えは、古書の販売とは古書が有する固有な文化の継
承と紹介であり、結果としての販売である。販売方法や価格問題も含めた文化
一般の均一化を目的とするグローバル企業の商品には古書籍の販売は適さない
。古書がもつ無限のオリジナル性、思想的価値を理解できない者は、古書文化
を理解できないどころか、儲かるならば何でも良いというのと同類である。 
 
 文化の均一化とは人間の均一化でもあり、それがやがてファシズムへの道に
通底することは近代史の流れでも明らかである。かってそのような話をしたこ
とがある。たちまち「そんなことで明日の飯が食えるか」と云われた。アニマ
書房は結果論にしか組しない。グローバル企業のサイトへの参加という、文化
の自殺行為、あるいは人間としての自殺行為には加担しないと云う、ただそれ
だけのことである。古書文化の理解とは、思想、哲学、文学、歴史などの書籍
をどれだけ読み、知識を蓄積したか。認識という弁証法を自身に確立できるか
どうか、である。どんな商売にでも共通することは、商いとして成立するかし
ないかである。すべて結果論である。古本稼業に遅れて参加したからには、同
業者の2倍や3倍くらいの知識の収得で間に合わない。テレビを捨てて35年以上
になる。知識、情報、文化は書籍、新聞、ラジオ、インターネットなどの媒体
から得るしかない。本を読みなさいと勧めておきながら、テレビ三昧の生活で
はいつかは商いの限界に突き当たることになる。それは必定である。
 それではこのブログの表題へ入ることにしたい。アニマ書房は日本の古本屋
へ5500点ほど出品している。このなかで最高価格として出品しているのが「金
山發(発)見法」である。昭和15年の出版で、版元は「誠文堂新光社」である
。ネットでの販売価格は「390,000円」とした。入力して10年以上が経過して
いる。入力時の調べでは、この書籍は国立国会図書館の所蔵しかなかった。大
学や全国の図書館には全くなかった。日本の古本屋や、グローバル企業の古本
サイトにも全く見当たらなかった。数年前に日本の古本屋にアクセスしたとこ
ろ、いつの間にかアニマ書房以外の同業者が3店ほどで出品しているではない
か。そのうちの1店の出品価格は175,000円であったと記憶している。これは
いつの間にか売れたようである。残り2店は45,000円、50,000円である。本の
状態に関してはアニマ書房の出品が最も良い。試しに日本の古本屋で検索して
いただきたい。但し昭和15年の出版であれば、経年変化は避けられない。函の
イタミが激しいのである。書籍本体にヤケも見られる。太平洋戦争突入前だか
ら、紙の統制が始まっていたかどうかは知らない。ただ国全体が戦時色の強い
時代であったことは確かで、だが検閲だけは通り抜けているのだ。

 アニマ書房が何故390,000円の価格を設定したか、である。消費税が5%か
ら8%へ引き上げられた時に、日本の古本屋ではシステムとして出品価格を自
動的に引き上げたから、その当座は410,000円ほどの価格になった.。40万円代
では高いと考えて、その後に入力当初の390,000円へ戻した。
 この本が出版されたその当時の日本の鉱業は、特に非鉄金属鉱山は戦時国家
体制に基づく統制を受け始めていた。つまり戦争時の日本は、戦争に必要な金
属以外の鉱山に対して閉山を強いた歴史がある。
 必要な原料としての鉱業製品といえは軍艦の造船に必要な鉄、大砲に必要な
銅、軍艦などの燃料としての石炭である。特に奢侈なものに使用されると見ら
れた金銀は狙い撃ちされ、金山、銀山は統制下におかれ、やがて閉山に追い込
まれた。そのような時代のなかで出版された書籍との位置付けから、390,000
円として設定したのが経緯である。この時代背景がなければ、この価格設定は
無謀極まりないし、現在も秘かに「果たしてこの設定で正しいのかどうか」と
いう疑問すら浮かんでくることもある。こんな価格は思い上がりではないか
・・・と。但しこの書籍は版元在庫切れは勿論、再版の予定もない。この価格
設定について、ブログを読んだ人々にその判断を仰ぎたいところである。
 かって北海道北見市の近くに生田原(いくたわら)町という地名があった。
生田原駅は今も現存する。厳寒の地である。この町は平成合併で遠軽町に組み
込まれた。常紋トンネルを訪れる鉄道ファンならば、この生田原駅を知らない
人はない。この町の戦前にノースキング(北の王とでも訳するのか)という洒
落た名前の、金を産出する鉱山があった。この金山も戦時統制経済の名のもと
に、国家によって閉山させられた非鉄金属鉱山のひとつである。人生の流浪の
末に流れ着いた祖父と伯父が、このノースキングが閉山する前に、相次いで病
死した。祖父は老衰、鉱夫だった伯父は痔ろうという病気で死んだと聞いてい
る。寂寥とした田舎町では納棺の用意も出来なかった。遺体は筵(むしろ)に
包まれ、数人の鉱夫たちの手によって鉱山の社宅から町の火葬場へ運ばれた。

                     川崎支部 アニマ書房 春田道博
                      

                                              川崎支部 アニマ書房 春田道博
 
 神奈川のチベットと云われる神奈川県川崎市麻生区の、小田急線百合丘駅前に
2000年10月に開業し、2003年に神奈川古書組合へ加入した。
開業当時は同業者がまじかに1軒、隣りの駅裏に1軒、大型量販店が2軒あり、
その後同じ区内に1軒開業したから、最盛期の商売相手は5軒あった。
今はアニマ書房と3分の1に縮小した大型量販店1軒だけの計2軒だけに減った。
そのアニマ書房も東日本大震災が起きた年の暮に店売りから撤退し、
ネット販売だけとなった。但し本の買取依頼だけは変わらなかった。
そしてこれからお話しすることは一昨年10月に経験したその買取のことである。
 知人Kさんを介して買取依頼の話があったのは一昨年7月である。
古本屋にとって、7月、8月の猛暑時の買取は大変である。二、三百冊程度であれば
苦にはならないが、それ以上の数量となればアルバイトに頼るか同業者に応援を
依頼するしかない。
そんな思いから10月迄に延ばして貰うことにした。
 プライバシーの問題があるから、具体的な家族構成には触れないが、要するに
四人の家族が残した書籍の整理、処分であった。その家の二階から降ろした分、
納戸に積み上げられた分、書斎の本棚などに残置されたものなどを、廃棄するもの、
査定するもの、単行本、新書、文庫本、大型本にそれぞれ分類し、運び出す作業は
1週間続いた。心理学、精神分析学、宗教、工学関係など、およそ四千冊になった。
車への積み込みには3日を費やした。
 この買取の作業中に実に不思議な体験をした。その体験した場所は3年前に
亡くなったその家の主人の書斎であった。
玄関から上がってすぐ左側の部屋が書斎であった。
はじめて書斎へ入った時は、部屋の中は足の踏み場もないくらいの乱雑な
状態であった。
応接用椅子、書類が入れられた数台のロッカー、雑多な生活用品が入った
段ボールなどがいくつも積み上げられてあった。
壁一面の書棚へ近づくことさえも難しく、作業を行う場所としてのわずかな空間も
ようやく確保しなければならなかった。
書斎ではあるが、茶飲み道具や食器が入った戸棚、小さな仏壇、生活道具なども
置かれていた。
それはひとつの家の中にもう一つの家が存在するかのような不思議な光景であった。
この書斎での作業が最後になった。
午前10時から始めた作業は延々午後4時過ぎまで続いた。
単行本や大型本はPPビニール紐で結わえる作業を、書斎の真ん中に置かれ
亡き主人が使用していたと聞かされた少し大きめの机の上で行っていた時の
ことである。作業をしている私の右側から、私を見ているような気配を感じたのだ。
ふしぎに思い、右側を向くと勿論そこには誰かがいるわけでもなかった。
気の迷いと思い、しばらく作業を続けていると今度は左側から私を見ている気配を
感じた。それは右側よりも強い気配であった。
これまで本の買取は数多く経験していた。故人の遺された本の整理も依頼された
ことも幾度があったから、その時もなんの偏見も予断も持たなかった。
 書斎での作業が終わり、結わえた書籍はすべて部屋から運び出し、玄関ホールに
積み上げた。
玄関ホールの右側の部屋、つまり書斎と向き合った部屋がその家の居間であり、
その居間の奥にも納戸風の小さな部屋があった。車に積み込む前の小休止で、
その家の依頼主でもある女性から勧められるままに、私はその居間の椅子に腰かけ、
出されたお茶の接待を受けたのである。
その瞬間、その奥の納戸風の小部屋からまたもや強い人の視線のような気配を
感じたのである。
私は思わず「今日はどうも他人(ひと)から見られているような気がしてなりません」
と卒直な感想を口にしたのだ。
これまでそのような言葉で買取依頼のお客と対応したこともなかったし、
そんな感想を自ら口にすること自体が自分自身でも予想しなかったのである。
その家の女性は「あら、随分感が鋭いのね」と一言口にし、それで会話は途切れるように
終わった。そして買取作業はすべて終わったのである。
 この後日談をお話しして置かねばならない。
この買取は知人を介しての話であったことは既に申し上げた通りである。
その知人Kさんへ買取が終わったことの挨拶に出向いた時、Kさんが何気なく口にした
言葉が衝撃的であった。
「あの家の亡くなったご主人は、3年前に訳ありの亡くなり方をしたからね」と。
 私はこれまで霊の存在を信じたことはなかった。霊感などとも無縁であったし、
特定の宗教を対象にした思想営為を試みたことなどもなかった。
唯物論者として「宗教」を総括していた時期もあった。そしてマスコミに登場する
霊能者や霊感を口にする俳優などは手品師程度にしか思わなかった。
興味を抱くのは民俗学に登場する自然の動きが醸し出す霊感現象(心的現象論)
くらいであろうか。
 それにしてもこうした私の体験は何処から来たのであろうか。
特別体調が良くなかったわけでもなく、書斎に窓はなかったから風が流れてくる
ようなこともなかった。
その家の内情について事前に知らされたことはなにもなかった。
家族四人のうち三人が同じ信仰を持ち、特にその中の一人は熱心な信徒であったこと、
亡くなった主人のみが信仰を持たず、大手企業の部長職を勤めていたが、
休日には昼日中から酒に酔い、駅前の繁華街で独り踊っている様を目撃され、
周囲の失笑を買っていたことなどは、すべて後日耳にしたことである。
「訳ありの亡くなり方」についても、誰かに問うこともなかった。
 そして私の買取が終わったその年の暮れに、その家の人たちは住み慣れた家、
土地を処分し、移住先も告げないままに引っ越したのである。

                       相模支部 香博堂オンライン

これから古本屋をやってみようかなと考えている皆様こんにちは。
広報のねこまんま堂さんにこの記事を書くように言われ、
「前に書いたからいいじゃん!」と、ちょっと反発してみたところ、
「ダメに決まってるでしょ!」と怒られた香博堂オンラインです。

何度かこのブログで記事を書いたことがあるのですが、
自分で書いた記事を見返してみるともう3年以上経過していて、
時のたつ事の速さに驚かされます。
組合に入って数年たちましたが、入った頃の仕事に対する思いや
考え方は、実はあまり覚えていません。
「古本を売る」という事自体は当初と変わりありませんが、今は当時では
想像がついていなかった方法や手法で古本を販売しています。
なぜ何とか今までやってこれたのかなと考えると、商品を売ることに
対して研究し、考えながら続けてきたことが大きいのではと思っています。
私はどこかの古書店に勤めていたわけではありませんので、
「こうやれば売れる。売るためにはこうやらなきゃいけない。」と、
教えてくれる人はいません。
すべては自分の考えを自分の責任で実践して行くのみなのですが、
間違った方法を続けていたとすれば、恐らく今古本屋はやれて
いなかったはずです。
組合のブログなんでかっこいい事の一つも書こうかと思ったのですが、
先ほど私が考えた事というのは、古本屋でなくってもどんな業界の人でも、
商売を続けていく以上ごくごく当たり前の事なんですよね。
ただ、この業界はちょっと様子が違います。
インターネットが普及する前はどこの駅にも数件の古本屋があって、
決まって不愛想なオヤジさんがいて、何となく繁盛しているように
見えたもんですが、最近ではほとんど見られなくなってしまいました。
今、古本屋をやっていこうと考えた場合、インターネットが普及する
前と後では大きく環境が変わっていますので、当然当時のような
販売方法では売り上げを確保できることはできませんし、
最近のネット環境の中で仮に今売れている方法があったとしても、
おなじ販売方法を続けているだけでは、最終的には売り上げを
確保していく事はできないでしょう。
日々研究・努力を続けていかなければ、生き残っていく事が
できない業界になったといえるのではないでしょうか。
個人的には古本屋がどんどんいなくなってきている昨今の理由は、
ここら辺が大きいのではないかなと考えています。
夢や本が好きで古本屋を始めたいと考えている方に一声かけると
するならば、「それだけではやっていけないよ。」と声をかけたいですかね。
いやなことも、つらいことも、体力的にしんどいことも、屈辱的なことも、
今までの収入よりも下がってしまうことも、古本屋になればすぐ経験する
ことになるでしょう。
ひょっとしたら、好きだった本自体が嫌いになることもありえますから、
そうなってしまうのであれば、今のまま趣味で書籍と接していく事が
良いのかもしれません。
それでも古本屋をやりたいと、業界に飛び込みたいと考える方が
いらっしゃるのであれば、 情熱と根性・努力と研究心をもって
飛び込んできてください。
それさえあればこの業界でも食っていけると思います。
私は今でもそんな感じです。
(古本屋の独り言でした・・・。)

                                                     相模支部 香博堂オンライン

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